善言讃詞

夕拝では善言讃詞を奏上させていただいておりますが、儀式化、形骸化したものではないので、本当に神様と繋がってお力を頂くというのを意識して自分から神様に近づいていく様にとご垂示にもありましたが、この日々の積み重ねが大事であり、これからはメシヤ様との繋がりの太さがモノを言う時期だということで、しっかりとお力を頂く為にただ奏上するのではなくこういう意味を頂きながら少しでもお使い頂ける様にお祈りしたいものですね。

善言讃詞は、観音経を縮めたものである。

善言讃詞を奏上するやその周囲の霊界は大いに清まるのである。

【善言讃詞】

敬(うやうや)しく惟(おもん)みるに世(せ)尊觀(そんかん)世音(ぜおん)菩薩(ぼさつ)此土(このど)に天(あ)降らせ(もらせ)給(たま)ひ 光明(こうみょう)如来(にょらい)と現じ(げんじ)應身彌勒(おうしんみろく)と化し(かし)救世(めし)主(や)とならせ

観音様として先ず表に出られて、そして最後はメシヤ様という位にまで上がられる。この時が光の玉が宿った時(昭和25615)

*應身彌勒と化し・・偏らない、どんな事にも対応するという事。

大(だい)千三千(せんさんぜん)世界(せかい)の三毒(さんどく)を滅し(めっし)五濁(ごじょく)を清め(きよめ) 百千萬億(ひゃくせんまんおく)一切(いっさい)衆生(しゅじょう)の大念願(だいねんがん)

  光明常樂(こうみょうじょうらく)永劫(えいごう)の 十方(じゅっぽう)世界(せかい)を成(な)らしめて 五風十雨(ごふうじゅうう)の不順序(くるい)無く(なく)

吹く(ふく)風(かぜ)枝(えだ)も鳴らす(ならす)なき 五六七(みろくの)御代(みよ)を生み賜(うみたも)ふ 無(む)量無邊(りょうむへん)の大慈悲(だいじひ)に

大千世界の大の字は、宇宙全体という意味である。

大は火であり三は水であるとしたら、大は昼の世界であり三は夜の世界となるから、
仏教は夜で月の教えとしたら、今までは夜の世界であったから、三が上になっていてよかったのである。
本教は昼の世界の宗教である以上、大千三千世界というのが本当である。

三毒、五濁・・・三毒は貪、瞋、痴、五濁は劫濁(こうじょく・時のケガレ)、煩悩濁、衆生濁(悪人のケガレ)、見濁(種々の悪見を起す)、命濁(寿命が縮まる)

十方世界・・東西南北と、その間である東北、西南、西北、東南の八つを八方と言い、それに天地の二方を加えて、十方世界というのである、
つまり地球を中心とした方角を言ったものである。

◆天魔(てんま)羅刹(らせつ)も服(まつろ)ひて 諸悪(しょあく)邪法(じゃほう)は改(あらたま)り 夜叉(やしゃ)龍神(りゅうじん)も解脱(げだつ)爲(な)し 諸(しょ)善(ぜん)佛(ぶつ)神(しん)咸(ことごと)く其(その)志(こころざし)を   遂(と)ぐるなり 山(さん)川(せん)草木盡(そうもくことごと)く 世(せ)尊(そん)の威徳(いとく)に靡(なびか)ひて 禽獣(きんじゅう)蟲魚(ちゅうぎょ)の末迄(すえまで)も 悉(みな)其所(そのところ)を得ざる(えざる)莫(な)し

*「天魔羅刹」は仏語で天魔とは天の魔王とも魔神、悪魔ともいう。
羅刹は鬼のようなもの。
夜叉は女の悪魔という意味で、昔から外面如菩薩内面如夜叉ともいわれている。
鬼のような女をさしていったもの。

代表のお言葉                              火素が増量して来ると、火素によって曇りが解消される為に浄化が起こって来ます。これが大きくなって大浄化となり、その大浄化によって天魔羅刹が気付いて行くということです。このままの行り方では太刀打ち出来なくなるから、神様に服って行かなければならないという様に改心していくのです。

(省略)

◆仁慈(じんじ)の御胸(みむね)に抱かれん(いだかれん) 吾(われ)等(ら)が日々(ひび)の施業(せぎょう)にも妙(みょう)智(ち)を賜(たま)ひ眞覺(しんかく)を得さ(えさ)しめ家(いえ)は富栄え(とみさかえ) 壽(よわい)は永く(ながく)無醫(むいや)藥(く)に 善(ぜん)徳行(とくこう)を重ねさせ(かさねさせ)福聚(ふくじゅ)海(かい)無量(むりょう)の大功徳(だいくどく) 垂れさせ(たれさせ)賜(たま)へ座せ(ましま)と 念々(ねんねん)従(じゅう)心(しん)下座(げざ)頓首(とんしゅ) 跪伏禮拝(きふくらいはい)願(ねぎ)ぎ申す(まおす)

仁とは仁斉ですから、メシヤ様の大愛に包まれるということです。ご祈願で占められています。 

◆主之大御神守り給へ幸倍給へ

最高最貴の御神名を唱えさせていただきますという想念で(その想念に応じて光をいただけます) 頂けた瞬間に自分の魂の中に光が入っていき、そうすると魂から霊線を通じてその光が自分の繋がる人に流れてゆきます。

 

◆惟神霊幸倍坐せ

神様の御心のまにまにご神意通りに生活させていただきます。魂を大きく幸せにしていただけますように。

 

平成23年8月メシヤ講座より抜粋

「祈り」そのものである『善言讃詞』

それからもう一つこの御教えを、今日拝読していただいた御教えの中からもう少し取り入れたいというのは、この本ずいぶん勉強したと思います。「善言讃詞のてほどき」を皆さん持っていると思います。これには善言讃詞の中身の説明を書いてますが、実は改竄(かいざん)した後に作ったものなので、善言讃詞の言葉の後半はメシヤ様のお作りになった文言とは違うものを使っています。これは、意味するところを当時の指導者たちが分かってないために勝手に変えてしまったということなのです。

それで今日もですね、天津祝詞と善言讃詞を私が代表で奏上させていただきましたけれども、善言讃詞とは何かということを考えた時に、実は、この善言讃詞はメシヤ様がお作りになった時に、この中では観音経を縮めて、そして現代人に合うように祝詞風に作り変えたという説明がありますね。それに基づいて考えてゆくと、この善言讃詞とは一体何かというと、これは「祈り」そのものなのです。

そして今日の、責任者に拝読していただいた御教えに照らしてこの善言讃詞をもう一度見つめてゆきますと、「世尊観世音菩薩此土に天降(あも)らせ給ひ光明如来と現じ。応身弥勒と化し。メシヤとならせ。大千三千世界の三毒を滅し。五濁(ごじょく)を浄め。」とあります。

ですから観音様として先ず表に出られて、そして最後はメシヤ様という位にまで上がって、それから「三毒、五濁(ごじょく)」を浄める、という経綸上の話が前半出てきます。それに伴って天国の形が出てきますね、「実(にも天国浄土なり。」という件(くだり)です。

だから天国浄土とはこういう形なんだということが、次に詠みこまれています。そして、天国浄土になると「歓(えら)ぎ賑はふ声々は。津々浦々に満ち弥(わた)り。国と国との境無く。人種(ひとぐさ)等の憎しみや。争闘事(いさかいごと)も夢と消へ一天四海観音の。仁愛(みろく)の御手に帰一され。仁慈の御胸に抱(いだ゙)かれん」という状態になってゆくことが詠み込まれている訳です。

そして、最後にですね、この「仁慈の御胸」というのは、「仁」とは「仁斎」ですから、メシヤ様の大愛に包まれるとということです。「吾等が日々の施業にも」とありますので、皆さん御神業にも身を捧げておりますが社会人として仕事を持ってます。そうした「日々の施業にも。妙智を賜ひ真覚を。得さしめ家は富栄え」ということですから、我々が働く場に叡智をどんどんいただいて、そして、仕事に対する自分の能力がさらに発揮されて、その職場で益々活き活きと自分の特性が発揮されて、結果的にその仕事が発展してゆきます。それによって自分の給料も上がるので、家は富み栄えてゆくということですね。

「寿(よわいは永く」は、先月『(本来の人間の寿命は)120歳』ということを示されています。ですから○○さんも後50年は頑張らないといけない。後50年は・・・。しかも「無医薬に」ですから、薬は一切いらないということです。切なる願い、御祈願が善言讃詞には詠み込まれているのです。

そういう中でいよいよ○○さん位の年になると、善徳行を積み重ねれるようになるんだ、と先月学びましたね。まだ我々位の50代からはやっと徳を積むスタートくらい。70代位になって初めて徳が積めるんだ、と。先月学んだ項にメシヤ様が書かれています。そういう境地に愈々立たれたんだと。これからが活躍の場なんだ、ということですね。

<参加者:そう思います。>

ねっ!実に良い返事を聞かせていただいたので、私は今日は安心して、発会式を終わらせていただけるかな、と思わせていただけます。それを聞いただけで・・・。

そして「福聚海無量の大功徳。垂れさせ賜へ座(ましませと」ということですから、希(こいねが)っている訳です。この「善言讃詞」をそういうふうに奏上すると、人間というのは仕事をするために生まれてきておりますので、その仕事の中に叡智をいただいて、そしてその叡智を発揮することによって職場がより繁栄する。また、それと同時に我が家が富み栄えていく、ということです。

で、こういうことを「垂れさせ賜へ座(ましませと。念々従心下座頓首(ねんねんじゅうしんげざとんしゅ。跪伏(きふく)礼拝願ぎ申す」という祈りなのです。「善言讃詞」というのは御祈願で占められているのです。

だから、この後に祈るものはない。ほとんどない訳です。以前の参拝形式は、「大光明真神守り給え幸倍賜へ」「おしえみおやぬしの神守り給え幸倍賜へ」と奉誦(ほうしょう)して、折角こういう素晴らしいお祈りをした後に個人的な祈りとか、質の余り高くない祈りをしてしまっていたために、信仰が高まっていってない訳です。“これこそが祈りだ”という概念を持たずに、「善言讃詞」を奏上しているために祈りが高まっていってない訳です。

重ねてお願いいたしますが、もう一度、この「善言讃詞」の中の意味をずっと噛みしめながら奏上していただきたいと思います。そして、“これが自分自身の祈りだ”という思いで、「善言讃詞」を奏上していただいた後がまた大切です。出雲支部の発会式挨拶の一番最後に書かせていただいているように、この世の中で一番高い御神格の御神名を唱えることによって、燦々と光を戴けるという、そういう意義を踏まえて、“最高最貴の御神名を唱えさせていただきます”という想念で「主之大御神守り給え幸倍賜へ」と唱えさせていただくと、その想念に応じて光がずっといただけます。

で、いただけた瞬間に自分の魂の中に光が入ってきます。すると、この魂から霊線を通じてその光が、例えば○○さんだったら三人のお子さんとか、それから自分のご兄弟とか、そういう所に光が瞬間に流れてゆきます。そういうイメージで「主之大御神守り給え幸倍賜へ」と唱えていただきたい訳ですね。

そして、「光がいただけた!」という事に対して感謝を申し上げながら「惟神霊幸倍坐せ」と奉誦(ほうしょう)し、最後の締めのお祈りにしていただきたい、と思いますね。

「惟神霊幸倍坐せ」も出雲支部の発会式挨拶に書いておりますように「惟神」は「神様の御心のまにまに」ということですので「御神意の通りに生活をさせていただきます」ということになります。そこで“自分自身は真に御神意通りに生活をさせていただいているのか”ということを問いながら、お祈りしつつ、言葉に出していただきます。そうして日々そういうものをチェックしながら生活をさせていただけると「霊幸倍坐せ」ということが実現してゆきます。

「霊幸倍坐せ」の霊は魂ということなので、魂が大きく充実して来るほど、幸せに恵まれてまいります。だから、その思いで「霊幸倍坐せ」というふうに御願いをしていくと自分の魂がより膨らんで充実してまいります。その姿を象徴したのが鏡餅の餅ですのでね、あの餅のようにイメージして自分の魂がずっと充実してくるように、そういうイメージで「惟神霊幸倍坐せ」と奉誦(ほうしょう)していただければ、この支部を通してより一層、幸福者が生まれてゆきます。

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