≪体験報告≫ メシヤ様にお使いいただける喜び

三重支部 濵口安子

立春祭並びにメシヤ教立教十周年おめでとうございます。三重支部の濵口安子と申します。この記念すべき意義ある節目の日に発表のお許しをいただけましたことをメシヤ様に感謝申し上げます。

12月の三重支部月次祭で楳木先生より「お世話をさせていただいている立場からの体験発表をしてみませんか」とのお話をいただきました。また、1月のメシヤ講座では先生より『何も信仰の経験のない人には一からですから大変なお世話がいるということなのですね。だから今度はお世話した側として体験記を読んだ時に、この時私はこう考えたなあとね。そういうことを体系化していくとね。そういう組み立て方ができるようになると自分の思想形態が広がっていくのです。これが素晴らしいことなのです。』と御教導いただきました。体験発表を前に、いきなりハードルを上げられたように思えました。

もともと書くことは大の苦手ですのでまとまりがなく、お聞き苦しいとは思いますがしばらくお付き合いください。

平成19年7月にメシヤ教に私達夫婦が御縁をいただいてから、早いもので2年半の歳月が流れました。その間に多くのことを学びそしてメシヤ様より御守護をいただいてまいりました。そういったことを振り返りながらこの体験記を書かせていただきました。

全く未熟者の私が現在のように御神業に深く関わることになったのも、目に見えない力が働いたとしか思えないことでした。よく先生から「御神意を感じますね」というお言葉をいただきますが、パートとして勤めていた職場の駐車場が借りられなくなり路上駐車を避けたかった私は辞めざるを得なくなってしまったのです。

そのころ、アパートを借りて高校に通っていた息子が「もう一人暮らしの厳しさはわかった」と家に戻ってくることになり、経済面でも助かったこともあります。周りに起こる出来事が、御神業に専念するような方向へと私を導いていくのです。

正直言って、メシヤ様にお使いいただけるという嬉しさと、本当に御手足としての御用ができるのだろうかという不安が入り混じっておりました。私は人にうまく話をさせていただけるわけでもなく、今までただひたすらに浄霊のお取り次ぎのみをさせていただいてきただけに、“人様に急所をとらえた心に響く御教えを、お話することができるのだろうか”という悩みと不安で一杯の新たな御神業が20年3月から始まったのです。

先生の言われるように「御神意を御神意として受け止めるのか」または「ただの出来事、偶然として捉えるのか」では、その後の人生に大きな差が出てくると最近は思うようになりました。

三重支部発会と共に経験したことのない浄化をいただき学びを重ねる

新たな御神業をスタートして間もないのに先生と主人は、二間床の御神前を新しく整えて三重支部を発会するという話を進めていました。“本当に出来るのだろうか”と心配しましたが、何事も段取りの速い主人ですので、びっくりするほどのスピードで、御神前を整えることができました。

「後は御神体を迎えるだけ」となった4月4日に、御神前で、御浄霊をいただきに見えたある方と参拝をさせていただいている時に、御神体を御奉斎するその白壁に、光輝く階段、そして階段上には丸い輝く光々しい物を拝しました。その時、感じたのは、六十段の神界のそのまた上段ではないのかということと、善言讃詞の中の一節『光明如来と現じ 応神弥勒と化し 救世主(メシヤ)と成らせ・・』で、まさしく我家にお迎えさせていただくのは、最高の御神体なのだと、強く強くわき上がる喜びに、胸に熱いものが込み上げてきました。

そして、4月12日に多くの皆さんにお祝いいただき支部発会が許されたのです。発会後、参拝、浄霊者もいただくこととなりましたが、次から次へと浄化をいただくのです。いただいた浄化もそれぞれとても辛いと思える今までに経験したことのないことが多くありましたが、楳木先生より月次祭で御指導いただき、また緊急時に御浄霊の急所をお教えいただきました。その御蔭で乗り越えさせていただくことができました。中でも、親子・家族の関係ということを考えさせていただくことが多かったように思います。

喜多さんの一番ご心配されているお孫さんで、ある日身体の疲れを訴えられ自宅のメシヤ観音様のお部屋でお取り次ぎをされた時に、部屋に入るなり「お婆ちゃん、この部屋に入ると今まで息も出来ない位に辛かったのが不思議な位に楽になった」と喜ばれ、メシヤ様からいただく御浄霊の御光と御力の素晴らしさを体験されたようです。

何時かはお孫さんと支部に参拝されること、そして、善き喜多さんの想いが受け継がれ、お力になれるように願わずにはいられません。身近なところからメシヤ様と御神縁をいただく願いを、諦められることなく願われた喜多さんの出来事でした。

「家族の霊線」についてですが、 私事ではありますが、私の父は、平成20年10月30日に他界いたしました。療養型の病院に入っておりましたが、8月に医師より父の状態は腎不全を起こして危険な状態で何時急変してもおかしくない状態と告げられました。

ちょうどその頃、大きな浄化を抱えてみえる方のお世話と、子供の就職活動と色々重なりどうなるのかと思っておりましたが、一晩中御浄霊を取り次ぎ落ち付きました。出なかった尿も出始め乗り越えさせていただきました。

その後何度も危険な時はあり、参拝に行かせていただいて良いものかと気を揉みましたが、私達は決意して北海道の伊都能売観音様入仏記念式典にのぞみました。そして、帰って来るのを待っていたかのように、最後の御浄霊をお取り次ぎさせていただいた後、しばらくして息を引き取りました。全く父と霊線が通じており父が御神業の手助けをしてくれたのだと思わずにはいられない出来事でした。

先生より「お父様は、亡くなる直前まで御神業されていたのですね」とのお言葉をいただきました。

斎場の父を見送る時間に間に合わなかった私に、姉が「父の顔は穏やかで、仏様みたいだったよ。ありがとう」と言ってくれました。メシヤ様はすべてに置いて私達が困らぬように細やかに御守護を下さるのですね。

日々の啓蒙を心掛けていきたい

話は変わりますが、以前の所属教団での私共の体験、感謝報告をお見せした時に、吉田さんより「壮絶な体験ですね!私だったら信仰を辞めていたと思うし・・・今現在あるのはなぜですか」と感想をいただきました。振り返って今読んでも涙が止まらないくらいの体験です。

今考えてみますと、若くしてなくなった義弟の慰霊のため五十日祭まで毎朝夕拝に参拝された人がいたが入信に至らないということがありました。50日も人のために神様に祈ることができ、浄霊を受け続けてなぜ入信のお許しがいただけなかったのかということです。

楳木先生より、「梅原猛氏の論からゆくと日本人の死生観があります。自分に降りかからないように、という思いです。メシヤ様は、そうした夜の考え方ではなく、生きた人間を現実的に救う道を教えてくださっています。また、真の慰霊の在り方を教えてくださっています。ここに、人々の自己満足と、真理に根差した生活の差があります」と御教導いただきました。

ともすれば、私達は「あなたのためにこれだけのことをしたのだから・・・」とか、「きっと神様は救ってくださるはずだ」とか、「きっと霊界で救われたはずだ」とかいう自己満足に陥ってしまいます。そして、自分が表に出て何かをしなければならないときには、自分が人からどう思われるのか「そんな迷信邪教」、「そんな非科学的な」と思われるのでは、とか、浄霊で何も変わらなかったら私が責められるのでは、とか、そんな思いが自分を蚊帳(かや)の外に置いてしまいます。

彼女をご主人とともに聖地、布教所へもご案内しました。彼女は、「天国の礎」も拝読しておられました。しかしながら、自分達が浄霊をして人を救っていくという気持ちにはなっていただけませんでした。彼女としては自分にできることの精一杯の慰霊に取り組んでいたのだとは思いますが「宗教に巻き込まれるのは困る」との思いがあるため、真の救いには繋がっては行かなかったのだと思います。

メシヤ様は『信仰の種類 (一)お蔭信心は(地上天国7号・昭和24年8月30日発行)』で

『ただお蔭さえ貰えばいい、神様のためとか世の中のためとか、そういう事は第二義的で、自分さえよければよいという利己的信心で、これらは多く中流以上の人に多い。信仰を利用する事は知っても、神に奉仕する事を知らないのである。信仰を利用するという事は人間が上で神が下になる。神を崇(あが)め奉仕する事こそ神から恵みを受けるのであるから、このお蔭信心は、反(かえ)ってお蔭を無くする訳で永続きしないものである。』

と御教え下さっております。

いつかきっと彼女が、「神様への奉仕」すなわち、彼女が浄霊により、生きた人間を現実的に救う道に目覚められることを信じ、日々の啓蒙を心がけていきたいと思います。

身辺の事象を整理し、学びと反省を明確に

また、卵巣癌で余命三カ月と宣告され手術までの二週間、先輩と浄霊に通ったことがあります。手術前のレントゲンでは何も腫瘍は写っていなかったのに「今は奇麗だが、いつ再発されるかわからない、念のために」と卵巣も子宮も切除されてしまいました。その人が三年後再発し、もう全身に転移していて「長くは持たない」と宣告されましたが、本人が「浄霊をいただきたい」と願いご家族が了解されたので六カ月間毎日のように通わせていただきましたが、お亡くなりになった人がいました。

最初に浄霊で癌が消えたという奇蹟をいただきながら、ご家族の方は浄霊を理解されていなかったがために、医師の「念の為に全部摘出」という言葉に従ってしまったのです。そしてその時から縁が切れていたため浄霊を継続されなかったのです。臓器を摘出してしまう前であれば浄霊によりお救いいただける可能性は高い、と言えます。

その時に大切なのは家族も含めた周囲の人の浄霊に対する理解ということです。御家族が少しでも御教えに関する認識があったなら「癌が見当たらないなら、摘出しないでください」と医師に言うことができたのではないでしょうか。

そしてここで整理しておかなければならないのは「再浄化」ということです。

○無い命を一度は繋(つな)いでくださるが、神律により二度目はない。
○救わるべき因縁のある人は、神様の大慈大悲によりどんな妨害があっても信者になる。

ということが次の御教えでわからせていただけます。

『明日では遅すぎる (栄光160号・昭和27年6月11日発行)』

『これは時々ある事だが、最早死の直前にまで追込められた病人で、御蔭を頂き一旦快くなって喜んでいると、再浄化が発って迷い始め、前の事を忘れて、再び医療に縋(すが)るが、無論成績が悪いので、再び浄霊を求めに来るが、こういう人はほとんど助からないものである。これはどういう訳かというと、神様は無い命を一度は繋(つな)いで下さるが、それを離すと、二度は決して繋いで下さらないからで、これが神律であるから致方(いたしかた)ないのである。従って信者はこの事をよく心得て中途で迷って、再び縋って来ても、気の毒だがそのつもりで扱うべきである。』

『神様も御手数が掛る (世界救世教奇蹟集・昭和28年9月10日発行)』

『治った患者自身がかなり分りかけた頃になり、たまたま再浄化が起りでもすると、(中略)治った時の事も忘れてしまい、また医師に行くが、元々医療で駄目だから当方へ来たのであるから、快くなるはずはないから前にも増して悪化する。しかし神様の大愛は今度は一層分るようにして下さるので、ここに本当に目が覚め救われるのである。

そのような訳で一度でスラスラ入信する人はまことに少ないが、しかし救わるべき因縁のある人はどうしても神様は離されないから、どんな妨害があっても結局は信者になるので、全く神様の大慈大悲は勿体(もったい)ないくらいである。』

お世話する立場としては、この点を良く踏まえ、本人に浄化と御守護の意味を良く説明し、継続して浄霊を受け御教えを少しずつでも学ばれるようお導きすべきであったと反省いたします。そして、『救われた命は私用に使わない。神様の御用にお使い頂く。』ことを肝に銘じておきたいと思います。

そしてまた、近所のご主人が脳内出血で倒れられ、なぜか肺癌になり、一ケ月半ほど浄霊に通いましたが、「母親には浄霊を受けていることを黙っていてほしい」と言われ、動揺し葛藤(かっとう)し自分も暗くなり浄霊に行けなくなってしまったことがあります。そして、二か月目にお亡くなりになりました。

楳木先生より、「宗教の役割、宗教に携わる者の役割があり、それは概ねきちんと霊界へ送り届けるということです。昔から、引導を渡す、と言われていますが、これが宗教の重要な役割なのです。」と御教導賜りました。

そこで、引導を渡すを、仏教用語では「引導を授ける」というそうですが、辞書を引きますと、【誘引開導の意で、本来は人を正しい道、仏道に導き入れることをいうが、転じて、死者を彼岸(ひがん)に導き済度(さいど)する葬儀の儀礼をいう。】とありました。

何人もの友を霊界に見送った体験記を以前の教団で発表した時に、ある指導者より「あなた達は引導を渡しに行っただけじゃないか。あなた達が思うほどみんな困ってはいないんだよ。」と言われ、やり場のない怒りを覚え、一ケ月程参拝しなかったことを思い出しました。

しかし、楳木先生のお言葉で長年のわだかまりがスッキリいたしました。引導を渡すことこそが宗教の大事な役割だったのですね。

「メシヤ講座・特選集<体験記> 宗教のもつ意味」で、「今、分かってもらっておきたいことがある。今のお母さんの身体で延命することは難しい。現界でのお母さんの役目は終わって、お母さんはこれから霊界での役割がある。あなたがこれまで生きてきた時間よりも長く、お母さんの供養が現界でできる。肉体が滅んでも魂は永遠である。」と先生がお話になっておられますが、現界で生きてほしいとの執着を和らげ、霊界での役割があることを話してあげることが本当に大切なことなんだとわからせていただきました。

そして、人に話をする時には言葉を練って相手の気持ちになって誠実にお話させていただかなければならないと改めて学ばせていただきました。

今の話は、次の御教えで確認させていただくことができます。

『御講話(S28年6月25日)御教え集23号』

『重病の場合でもう治る見込みがないという時に「どんなになっても、まだそんな失望するにあたらないから、しっかりしていろ」と言って慰めますが、これは本当言うといけません。やはり生の執着が御守護の邪魔をするのです。治すのは、正守護神が神様の方から力をいただいて、自分がお取り次ぎして治すのですが、その場合に生の執着があると、正守護神の思うとおりにならないのです。本人や周囲の者の執着心が邪魔するので、治る場合も治らないということも大いにあります。ですからこれからは、もう駄目だと思ったら、早く本人に諦めさせるのです。「これはもう駄目だ、死ぬ覚悟をしなさい」と言った方が、かえって助かるのです。』

御世話に取り組む意義が日々明確に

ここで浄霊をいただいて他界した人と浄霊を受けないで他界した人の違いは何かを考えてみたいと思います。

1.肺癌でしたが手術を受けず、ホスピス病棟で亡くなった義父は、死を迎える自覚があり、「もうあっちへ行くから博幸(私の主人)を呼べ」と言うので義母は私達を呼びました。そして家族に会ったその日の朝に、いつものようにベッドに座って浄霊をいただきながら眠るように昇天しました。亡くなる朝まで食事をとることができました。

そのことを楳木先生にお会いした最初の頃お話しましたら、「身体を傷つけずに旅立つことができた意義は、霊界生活に入ってこそわかるものです。」と話して下さいました。

2.浄霊をしたくとも声をかけられなかった主人の知人は頬がこけ顔色が黒くなり苦悶の表情で亡なくなりました。

3.浄霊を続けてさせていただいたが、親の反対により途中で行けなくなり亡くなった友人には未信者さんも一緒に御霊前で「善言讃詞」を奏上させていただきましたが、顔には笑みさえ浮かべており悲しみの中にもホッとさせていただけました。

これらの経験を通じて、浄霊を受けていた人と受けていない人では亡くなられた後の面貌が全くちがうことがはっきりとわかりました。また、穏やかに霊界に行くためには死の自覚が大切であることをわからせていただきました。

私は、義父、母、父を霊界へ見送りました。いろんなことがあったのですが、自らの親を霊界に見送ることの意味を整理しておきたいと思います。

楳木先生よりこのことに関して、「一般に、親を見送ることの意味は真の世代交代を意味します。自らが家系の担い手になるということです。自らが積徳の最高責任者になるという意味になります。悲しみを乗り越えた後に、そうした自覚が芽生えなくてはなりません。それが御教えに出会った者の責任でもあります。」と御教導賜りました。

『再生(明日の医術・昭和18年10月23日)』の御教えに

『浄まった霊体ほど再生して幸福者となるのである。此理(このり)によって早く再生する場合は、汚濁が残存しているから、再生の後現世に於て浄化作用が行われなければならないからである。勿論現世の浄化作用とは、病気、貧乏、災い等の痛苦であるから不幸な運命を辿(たど)るという訳である。故に、生れ乍(なが)らにして幸不幸があるという事は右の理に由る事が多いのである。故に、決して幸不幸は偶然ではなく、必然である事を知らなければならない。然し乍(なが)ら、今一つの原因がある。それは死後の霊魂に対し、その遺族が誠意を以て懇(ねんご)ろなる法要を営(いとな)むとか、又は遺族及び其(その)子孫が人を助け慈悲を行い、国家社会の為に尽す等、善徳を積む事によって、祖霊の浄化作用は促進されるのである。右の理によって、親に孝を尽すのは現世のみではなく、寧(むし)ろ死後、供養や積徳によって霊界に於ける親に孝養を尽す方が、より大きな孝行となるのである。世間よく「孝行をしたい時には親は無し」というが、之は全く霊界の消息を知らないからである。(後略)』

とあります。つまり、私達が今幸せに暮らせるのも、メシヤ様に御縁をいただけたのも、先祖様の積徳があったからであり、今までの御先祖様が罪穢れを払拭(ふっしょく)され徳を積まれ何度も生き代わり生まれ代わるうちにようやく私達の世代でメシヤ様に繋(つな)がらせていただけるようになったのです。私達の代でもメシヤ講座で学びましたように「先祖から受け継いだものの内で良き特徴は受け継ぎ、問題とすべきものは改めてゆく。罪穢れに相当するところは改めてゆくことを家庭慰霊祭で毎回お誓い申し上げる。」という、そういうことの積み重ねにより進歩向上を心がけてまいりたいと思います。

以前主人と父の介護に向かう車中で「私達の代で先祖の残してくれた徳を使い切ってはいけないね。子孫に徳を残して行けるようにしなければね」と話したことがあります。これが、先生のおっしゃる自らが積徳の最高責任者となるといういうことなのだと思いました。

私達は『三千年の間には、いくども生き代わり死に代わりしているのです。(御講話・S28年12月25日)』と御教えにありますが、この現世に生き代わっている時に、三千年の歴史の大転換の時に際し、メシヤ様の御手足として地上天国建設の御聖業にお使いおいただけることを感謝申し上げ、精一杯歩ませていただかねばならないと思います。

そうしていくことがまた、先祖様への徳返しとなり先祖様が次に生まれ変わった時に幸せな生活を送ることにつながります。そして、子孫へ徳を残すことになり地上天国の住人となれる道しるべとなれるのだ、とこの体験談を書くことにより整理させていただくことができました。『正守護神は、祖霊同士でもなけりゃ、神様でもなく、祖霊の中でそのときの霊界で一番上の祖先がやられるんですよ。(御光話・S25年4月8日)』と1月のメシヤ講座で学ばせていただきましたが、将来子孫の正守護神となり子孫を見守ることが許されるよう、現世で徳積を心がけていきたいと思っております。

メシヤ様から事前に経験させられ準備させられているように

メシヤ講座で学ばせていただいたことで、私の性格として思うのは、「我と執着」「無知な事」ですが、参拝にみえる方々と訪問させていただく方をお世話をさせていただいて、日々学ばせていただいております。

そして、御神業をしているとき強く感じますことは、事前に経験させていただいていることが多いということと、同じことがあちこちで起こる「同時性」ということです。

例えば、義兄のくも膜下出血の時に先生より御浄霊の急所を御教示いただいておりましたので、喜多さんの浄化の時に「頭の関係の御浄化だと思われるので大静脈、大動脈のあるお臍の両側を良く自己浄霊するように」とお話することができました。

また、アトピーは我家がメシヤ様とご縁をいただいた浄化です。乗り越えるまでの忍耐力と乗り越えられた喜びをアトピーの浄化は教えてくれました。最初は不安感が募り途中で何度となく挫折してしまいそうになります。アトピーには忍耐がいります。

薬毒排泄の浄化を繰り返しながら、文字通り薄紙を剥(は)ぐように良くなって行く過程を支部に御縁をいただいた子供たちの母親にお取り次ぎの中でお話をさせていただきました。吉田さんも我家と同じように生後数ヶ月でのアトピーとなり、子供が小さな時に浄化を乗り越えられて良かったと思われたそうです。

浄化について、お世話させていただく中で次のようなことを感じさせていただきます。

○子供の浄化がひどくなる時は、心配と不安感から執着の余り「メシヤ様にお任せさせていただく」という気持ちがゆらぎ、みずから曇りを作ってしまうこと。
○浄化はその家で倒れては困る人には軽く乗り越えさせていただけること。
○子供の浄化を一つ一つ乗り越えることによって親子の絆と親としての成長と強さを与えていただけること
○子供が成長した頃には、自分たちの親が年老いて、浄化の試練が訪れること。
○支部全体の御浄化で、祭典の節目節目で御浄化をいただくこと。主人の盲腸炎、火傷、とびひ、風邪と参拝が出来ないかもと思われた御浄化も、浄霊させていただき、諦めることなく想い続けていると参拝も許され、御守護も早くいただけるものです。
○忍耐力を持って取り組ませていただくと、浄化を乗り越えた後には、「感謝」の気持ちと「笑顔」が待っています。

メシヤ様は「事前に準備をされておられたのではないか。」と思わせていただくことで、主人がよくいうことは、今やっていることの小さな型を事前に経験させていただいているということです。前の教団でもグループでの勉強会を主人がお世話して実施していましたが、今はミニ・メシヤ講座に生かされております。

そして、我家で楳木先生より御指導いただき仏壇を整えるとその仏壇を見て喜多さんがすぐに仏壇を整えられました。私達が何店も仏壇屋を回って信頼できる店と店員さんと御縁ができましたので、非常にスムースに慰霊祭まで事が運びました。それからすぐに、浄霊のお世話をさせていただいている家のお位牌を整えることもできました。 自分たちの経験からお話ができるので理解されやすかったのではないかと思いました。 店員さんとの話の中で仏事に関する知識を主人は学んでいきました。そして、「位牌は黒地に金文字」とか御教えに沿った内容を逆に店員さんに説明していましたので、非常に仏事に興味があるのだと思われたのか、いろんな宗教宗派の仏事の形式について仏壇屋用の資料を下さった程です。

「車のお祓い」「不要となった宗教神具の処分」等の方法を楳木先生にご指導いただくと、しばらくして復習のように経験を重ねることが起こるのです。御神意のもと必要あって経験をさせられているのだと主人は思わせていただいたそうです。

つい先日、御神前の窓を掃除している時に主人はこんなことを思ったと話してくれました。 窓は外側だけ拭いてもきれいにならず、内側だけ拭いてもきれいになりません。外側も内側も拭かないときれいにならないのです。また、天気が曇りの日はきれいだと思って見ていた窓も、太陽の光が射して明るくなると汚れが目に見えてくるのです。曇りが浮き上がってくるのです。私達人間の曇りも同じではないですか。薬で外の目に見えるところだけ治療しても良くなりません。浄霊で太陽の精を放射し、曇りを内側からもきれいにしなければいけませんね。そして魂に直接響く御教えを学んでいくことが大切なのではないでしょうか。そんな話をしておりました。

私は、ああ楳木先生がおしゃっていた、「体験を体系化して信仰のない人にわかりやすく話ができるようにする」とはこういうことなんだと、思わせていただきました。ちょっとした日常生活の中にもメシヤ様の御教えは生きているのですね。

浄化中のお世話をさせていただく度に、もっと気持ちを楽にしてあげれる「浄霊と言葉の急所」を見つけられますように、いつも願っております。月日がたつとついつい甘えと気持ちの緩みが出来てしまいますが、素直に慢心することなく、一歩一歩前進出来ますように、主神様の御神体の御光に包まれた御神前で祈願に取り組む場が増加し、メシヤ様と直に太く繋がらせていただけますように願っております。

『新人たれ(栄光七三号・昭和二五年十月十一日)』で、『人は常に進歩向上を心がけねばならない。無論焦ってはならない。ほんのわずかずつでもいい。長い年月によれば必ず立派な人間になる。』と御教えいただいております。『私といえども去年より今年、今月より来月というように、あくまで進歩向上心の緩まないよう努めている。』と、おどろくことに神人合一の御神格のメシヤ様にあられても進歩向上に努めておられたのです。

『新人たれ』の御教えを胸に、絶えず進歩向上を心がけてまいりますので、皆さまどうぞこれからもよろしくお願い申し上げます。本日は、おめでとうございました。ありがとうございました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。