教祖祭に向けて

ふと、新年があけましてから、先達の方々の事が頭によぎりまして、しまってあったクローゼットから「明主様と先達の人々」という本を出して読ませて頂きました。

明日は教祖祭ですが、

昭和での御神業は御在世中のメシヤ様と先達の方々の土台があり、今こうやって平成で御神業をさせていただけているという事でもありますので、メシヤ様御在世中の先達の方々の想いを胸に刻ませて頂かないと申し訳ない、と思わせて頂きました。

教祖祭に向けて数々の先達の方々のお言葉や、御在世当時のメシヤ様のお言葉を少し抜粋させていただいて学ばせて頂きたいと思います。

・長谷川なみ

明主様が、時に応じて教えて下さったお言葉を、手帳から抜き書きしてみますと、

『普通の人は、ちょっとした喜びがあると、すぐ有頂天になり、少し悲しいことがあると、すぐ悲嘆にくれるが、喜びや悲しみは、縄のように、交互にやってくるものだ』

『他人のことなど決して言えるものではない。自分を考えてみれば、やっぱり同じことをしている』

『他人の噂話をしているとき、その人の霊はそこへ来ているものだ』

『信仰とは気をきかすこと、細かいことに気がつくことだ』

『説教してわからせようとするのは、その人に信仰がないからだ』

『女の人は、容姿を美しくするのも結構だが、言葉を美しくしなさい』

・堀内照子

終戦後間もないころ、専従を決意。

海軍の将官だった堀内の主人は公職追放になり、収入は皆無、三年もたつころには、売るものを底をついてしまった。

そのころのこと、面会のあとで、教祖は堀内を呼んで尋ねた。『このごろ、生活はどうしているのか?』実際はピンチで、その日も、財布の中には次男喜一と二人分の帰りの汽車賃しかなかった。しかし、勝気な気性の堀内は、

「はい、お蔭様で何とか暮させていただいております」と答えた。すると、『それは本当か?』と重ねて尋ねながら、教祖は堀内の顔をじっと見つめたのである。

「私はハッとして、体中の血がなくなるように感じました。何もかもお見通しの明主様に、私は嘘をついてしまったのです。申し訳ございませんと、畳についてひれ伏してしまいました。それから改めて、今日までの売り食い生活のすべてを申し上げたのです。黙ってきいてらっしゃった明主様は、御目に涙さえ浮かべられ、『過去の華やかな生活を追うことをせず、よくそこまでやったな。財布の中味のないことが、私にはわかっていたからきいたのだ。私には嘘をついてはいけない。無理をしないでもいいよ、もうすぐよくなるから。困ったときには、いつでも相談に来なさい』と、いつもの慈父のような、やさしい明主様のお言葉でした。私は胸がいっぱいになり、涙があふれ、明主様のお顔がボーっとかすんでしまいました。ひれ伏したまま、しばらくはこみあげてくる嗚咽をおさえることができませんでした。何もかも、お見通しの明主様に、素直になるどころか自分をつくろい、嘘のお答えした自分の醜さに気づいたとき、自分で自分を打ちのめしたくなりました。恥ずかしさでいっぱいでした。」

ところが、次の月から御用が急に忙しくなり、それが、後の教会の基になったのでした。明主様はお見通しでいらっしゃること。また明主様のお言葉は、必ずその通りになっていくということ、また、嘘は絶対にいけないということを、このとき心の底から覚らせて頂きました。

・樋口喜代子

末っ子として育った私は、絶えずかわいがられ、大抵の我がままが通った。ほめられても叱られたことが余りないので、自分はいい子だと思い込むくせがついてしまった。

従って、人に注意されたり批判されたりすることは我慢のならないことであった。それで、御奉仕に上がってからご注意毎に、必ず言い訳が出るのであった。

すべきことをしなかった時は、『ああ、それは今しようと思っていたのです』とか『実はしようと思ったけれども、これこれの理由で出来なかった』等の言い訳が必ずとび出たものである。そんな時、改めて言い訳のためのお叱りをいただいた。

『思うだけでは何にもならないではないか。やらなければ思わないのも同じだ』

『何故あんたはだまって、すみません、だけですまされないのかね』幾度こんなことを繰返して先生にお手数をおかけしたことであろう。

・大久保政治

あるとき、秋田で講習会が開かれた。ところが講師をつとめる大久保に、郷里北海道から近親者危篤の電報が入った。しかし、「講習は明主様から与えられた重大な神業です。しかも、大勢の人々が救いを求めて集まっておられるんだから、いくら身内とはいえ、ただ一人のためにこれをやめて行くわけにはいきません」

と言って、いつに変わらぬ態度で終始し、その任を果たしたこともあった。

昭和二十五年秋、函館にあった松栄中教会の会長寺村光生が、はげしい下痢の浄化のため休んでいた時のこと、大久保は寺村を見舞い、浄霊のあと、次のような話をした。

「大病の経験のないものには、病人の本当の心はわからない。自分が病気してはじめて、人の親切や思いやりの心がわかる。私がそうだった。君も日頃元気だから、病人に対し”病気は浄化作用である”とそんな気持ちでやってきたのではないかね。たしかに、それはそうだけれども、病人の心をくんでやる、思いやりというものが欠けていたんではなかったか?」

これを聞いた寺村は、胸を突かれる思いがした。

“たしかに自分は、病人の苦しみがわからず、きびしい言葉を口にしてきた。全く、思いやりが足らなかった”と心から反省したが、このことはその後の布教に大きく役立ったという。

・二本木暉子

二本木はいつも、教えの「誠」「素直」を信条とし、人に接する時には、優しく謙虚を旨としていた。

ことにその療養生活が長く辛かったので、苦しんでいる人を何とか助けてあげたいと、一生懸命に浄霊を取り次いだ。

しかし一面、信念が強く、真実を社会に訴えるためには、敢然として立ち上り、積極的に行動したので、教祖から、

『二本木さんは女傑だ』と言われたこともあった。

“上流が濁れば下流も濁る”の譬の如く、私どもの言動が、信者の身魂の清濁、即ち信者の運命に大きく影響するのです。

と言って、神の代行者として救世の聖業を担当する者の重責を思い、自らをきびしく律するとともに、資格者の想念と実践こそ神業の要であることを、たえず強調したのであった。

・大西秀吉

師や先輩に対し、礼節を守ることが大変厚かった。

死ぬほどのはげしい浄化にもかかわらず、渋井の浄霊を受けるとき、服装を調え、きちんと正座したことは、すでに記したところであるが、三か月先に入信した小泉に対しても、常に先輩として仰ぎ、その意見には素直に従うなど、徹底して礼を尽くしたのであった。

・田原和子

最初に渋井から、「叱られ上手になれ」と言われ、何か失敗があると呼ばれて叱られる、全く知らぬことについてさえ叱られるということが続いたので、時には気が滅入ることもあった。そんなある日、清水町仮本部で会合が開かれたときのこと、一人の奉仕者が手違いをした上その言い訳を言ったため、教祖はその人をきびしく叱責した。これを見ていた田原は、あとで渋井に「大先生のような偉い方が、何故あのようにお叱りになるのでしょうか?」と尋ねた。

すると渋井は「人はそれぞれ、一生のうちに浄化せねばならぬものをいろいろと持っている。それをさまざまの形で浄化し、その度に罪穢が消えて行くのだ。たとえ、自分の知らぬ事で叱られても、それにより一つ一つ罪穢れは減って行く。ところが言い訳をすると、消える罪が消えずに増えることになる。大先生はそれを可哀相に思われ、一つ消えるところまで叱って下さるのだ。それと、二度と同じ過ちを繰り返さぬためにも」と言った。これにより田村は、教祖の叱責には、その人を救う大慈悲のあることを覚ることができ、同時に、それからは気の滅入ることもなくなったという。

・柴田雄太郎

米の産地の信者は、面会のとき米を献上する人々が多かったが、柴田もその一人であった。

「私は毎月ご面会に参りましたが、当時は教えを頂くというより、何か明主様にお届けしたい気持ちでいっぱいでした。秋田は米の本場ですから、ご面会の度に、約二斗(半俵)入りの大きなリュックで運びました。そうしないではいられなかったんです。そのころ取締まりがきびしく、一度だけ捕まって10日間留置所へ入れられましたが、寂しいとか、恥ずかしいなどとは少しも思わず、反対におもしろいような、嬉しいような気持ちでした。ブタ箱へ入れられたから、もう米運びはやめようなどと考えず、その後も、せっせと運び続けました。そういう、何が何でも明主様に・・・という気持ちが強かったときには、布教も発展しました。このような奉仕の精神を持つことが、信仰の原点だと信じております」

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